ベンゼン分子のp電子は不安定な状態にある?

ベンゼン環は通常の化学反応では壊れることはありません.非常に安定な系で,ほとんどの有機化学者は,その安定性はp電子によると信じています.この常識に挑戦するような論文がShaikらによって198595年にアメリカ化学会の雑誌などを中心に掲載されました.そのうち主なものを参照文献1-7に示しました.アメリカ化学会誌は化学分野の研究をリードする雑誌ですので,有機化学者のとまどいは容易に想像されます.
 ところがよく調べてみると,彼らの結論は間違いで,間違いの原因は研究手法として分子軌道法を用いたがその用い方が間違っていたことが明らかになりました.量子力学の基本的知識に欠いていたことと文献をよく調べなかったのが原因だったのです.
 驚くべきことは,このような単純な間違いに論文審査員がだれも気づかず出版を許したことです.アメリカ化学会誌の審査員はいわゆる一流(?)と自他共に認めている化学者がつとめています.これは,一流といわれている理論(?)化学者の中にすら量子力学の基本的知識が正しく浸透していないことを露呈するものでした.この経緯をtanukiが編集してなるべくわかりやすく報告します.

図1.附加反応と置換反応の例

芳香族性

芳香族性のトピックはすでに取り上げられていますので,そちらも参照してください.

http://www.chem-station.com/yukitopics/aromatic.htm).また,芳香族性は有機化学の基本的概念ですので,どの有機化学の本にも載っています.ここでは,専門書のうちいくつかをあげました[8].ベンゼンは非常に安定な不飽和炭化水素です.不飽和炭化水素は附加反応を起こすのがふつうですが,ベンゼンは置換反応(ベンゼンの水素原子が他の原子(団)に置き換わる反応)を起こします.つまり通常の不飽和炭化水素は不飽和結合を解消する方向で反応が進むのに対し,ベンゼンはベンゼン環の環状不飽和結合構造を保つように反応が進むのです.このような性質を示す環状不飽和炭化水素が多数あり,芳香族系化合物(aromatic compounds)といいます.ベンゼンのほか,ナフタレン,アントラセン,フェナントレン等があります.芳香族の“芳香:aroma-”の由来は,このような化合物は比較的いい匂いがするからです(一般に鎖状の不飽和炭化水素は腐ったタマネギのような悪臭があります).しかし,現在では“いい匂い”ではなく,不飽和環状化合物の特別な安定性を指します.

 

 

環状不飽和炭化水素

環の員数(mの値)の大小に関係なく,

p電子の数が4n+2のとき,安定.

p電子の数が4nのときは不安定.

n=(0),1,2,・・

 

 

 

 

 

 

 


 

図2.環状不飽和炭化水素のp電子の数と化合物の安定性の関係

芳香族化合物の安定性は,ヒュッケル則の発見によってπ電子の共役によると長い間信じられてきました.環状不飽和炭化水素の安定性とp電子の数の関係が調べられ,p電子の数が4n+2n=0,1,2,・・)のとき,同じ数の不飽和結合を有する鎖状炭化水素とくらべて安定となり,4nn=1,2,4・・)のとき不安定となることがわかりました.これをヒュッケル則あるいは4n/4n+2則といって,有機化学ではもっとも基本的な概念の一つです.ベンゼンは安定系のn=1の代表的な例です.

 環状不飽和炭化水素系で,不安定なものは化学反応性が非常に高くすぐに他の分子と反応し消滅したり(例,シクロブタジエン)やp電子の共役を避けるため,平面構造をとらず曲がった形になる(例シクロオクタテトラエン)ものがあります.しかし,p電子を除いたりあるいは加えたりして,p電子の数をヒュッケル則の安定系の数にしてやると系は共役に都合のいい平面構造となるのです.そのような例を図3に示します.図3の下段に示されたイオンは左か正4,5,6,7,8角形の構造を有しています.つまり,-CH=CH-CH=CH-の結合ではなく,すべてのC-C結合が1重結合と2重結合が区別のない均一な結合となるのです.

さらに次のような事実もあります.ベンゼンのC-H結合は,炭素原子の電気陰性度は2.5で水素原子のそれは2.1ですのでCd-—Hd+のように分極します.分極した構造体を双極子(dipole moment)といいます.その大きさ(m)は分極した電荷の量(Q)と電荷間の距離r(この場合は結合距離),Q×rで表され,双極子能率といいます(単位はデバイD).双極子能率はベクトル量で方向を持ち,-から+の方向を正にとります(方向を逆に定義するテキストもあります.例http://www.springer-tokyo.co.jp/mailnews/physycs/isbn4-431-70957-6.html).

 

図3.不安定な系であっても,p電子の数をヒュッケル則の安定な数にするとp電子系は完全な共役となる

 

ベンゼンの場合おのおののC-H結合は双極子を持ちますが,分子の対称性から必ず反対の方向の双極子があります.互いに相殺して,ベンゼン分子全体の双極子能率は0となります.ところが,ある種の環状不飽和炭化水素は分子全体として特異な双極子能率を持つ場合があります.図4にその例を示します.m 値は分子の双極子能率,構造式の炭素原子につけられた数値はヒュッケル分子軌道法という方法で計算したp電子の電子密度です.

 

 


 


図4.フルベンやアズレンは分子全体として大きな双極子能率を持つ.

 

フルベンの環の中のp電子数は5つですが,もし末端のメチレンからp電子を1個を環の中に取り入れれば,環の中のp電子数は6個となります.アズレン分子は,5員環のp電子系と7員環のp電子系が融合した構造をもち,それぞれp電子数は5個と7個です(境にある炭素原子のp電子は両方の環のp電子数に数えます).アズレン分子で,もし7員環のp電子1個が5員環側に移れば,両方の環ともに6個のp電子系となります.これらを考えると,環状不飽和炭化水素のp電子系は,ヒュッケル則の安定系である4n+2n=1)になるようにp電子は移動し,大きな双極子能率が発生します.分子軌道計算の結果もそのようなp電子の移動を支持しています.

話をベンゼンに戻しましょう.ベンゼンの特異な安定性は共役の特別な形としてとらえられ,長い間有機化学者にも,理論化学者に受け入れられてきました.余談ですが,E. Hückelは,ベンゼンのこの特別な安定性を説明するために,有名なヒュッケル分子軌道法を導入したのです[9].くりかえしますが,このように6p電子系の安定性は有機化学者の間では絶対的な信頼を得ているのです.

 炭素原子同士の1重結合の結合距離はだいたい1.54 Å,2重結合は1.35 Åですので,本来なら(芳香族性という特別な共役がなければ)構造Aのようにいびつな形を持っているはずです.(A構造を分子の対称性表現の約束で,D3hの記号で表されます.)しかし,ご存じのようにベンゼン分子は正6角形の構造Bをとります.(これは,D6hと表現されます.しかも,結合距離は1.4 Åとなっています.これは,2重結合同士が完全に共役して,2重結合の間にある1重結合にも2重結合にもp電子が同等に分布し,それらの結合が区別出来ない状態になっています.

このよう事実からもベンゼンの特別な安定性とD6h構造は,p電子に由来するという考え方にはほとんど疑いが入れられませんでした.ですから,Shaikらの発表は,芳香族性という有機化学の基本的概念を揺るがしかねない重大な問題なのです.

 

図5.ベンゼン分子の構造

 

Shaikらの主張

平面状の不飽和炭化水素の全エネルギー(E)はシグマ(s)電子のエネルギー(Es)とパイ(p)電子のエネルギー(Ep)に分けることができます.これは結合次数(P)をシグマ電子の結合次数(Ps)とパイ電子の結合次数(Pp)との和(P = Ps + Pp)として表すことができるので可能なのです.

                                                (1)

Shaikらは,D6hのベンゼンを一つおきの結合を距離dだけ伸ばし,もう一つおきの結合をdだけ短くし(D3hの構造C),EsEpの変化を見たところ,D6hのベンゼンに比べてEsは低下し,Epは上昇したというのです.この事実から,ベンゼンのp電子は,均等分布よりは局在化した電子構造を好むと結論したのです.その後この結論を補強するため数多くの論文を発表しました.一見して非常にもっともな主張です.しかし,“一見もっともな”現象には,思いがけない裏があるものです.これが,研究者が研究に熱中する所以なのです.

                                               (2)

多くの理論化学者の関心をよびました.Shaikらの結論に賛成する論文[10-16],反対する論文[17-19],また研究の方法によって異なる結論を与えることを疑問視する論文[20]などが現れました.

この問題を解決したのは,Ichikawaらの一連の論文です[21-25].彼らが指摘したのは,まず,1式で表された,Epが本当にp電子のエネルギーを表すか.次に構造BCに変化させると,Epの値は変化するが,それにはp電子構造の変化によるエネルギー変化だけでなく原子核の位置の変化によるエネルギー変化も含まれる.したがって,一概に電子構造の変化によってEpが低下するとはいえないということでした.この詳しい説明は後にして,ベンゼンに対するShaikと同じような疑問を持った人はいなかったかを調べてみましたら,彼らの指摘以前に2つほどありました.

  

 

 

 


図6.ベンゼンのD3h対称を保った振動(b2u)

 

Honigの疑問[26]

 50年以上も昔の話ですが,Honigはベンゼンの振動スペクトル(赤外線領域)を調べたら奇妙なことに気がつきました.ベンゼンの平面構造を保つ振動の様式は2つあります.一つは,ベンゼンの正6角形構造(D6h)を保つ振動でベンゼン核が膨らんだり,縮んだりする振動でa1g形の振動とよばれています.もう一つは,一つおきの結合距離が伸び,ひとつおきの結合が同じ割合で縮むというものです.これは,D3h構造を保つ振動で,b2u形振動といいます

 b2u型の振動数が非常に少なく(1311, 1147cm-1),振動数は振動エネルギーに対応します.Honigが指摘したのは,“b2u型振動は,小さなエネルギーで起こる.その理由は,ベンゼンがD3h構造になることことによるKekulé電子構造(p結合が完全な共役せずに1重結合と2重結合の性質が保たれる電子構造)が安定なためである.つまり完全共役しないで2重結合と1重結合からなる方がベンゼンのp電子は安定である”と推定したのでした.
 それから,
10年後,BerryHonigの主張を,分子軌道計算結果を基に支持しています[27].そこでtanukiは,Berryのいう分子軌道計算の方法を調べてみましたが,Snyderという人のシンポジウムでの発表(口頭発表)の引用であり,Snyderはどのような方法で計算し,どんな結果を得たのかは知ることはできませんでした.

 ところで,Honigの結論はそのまま受け入れられるでしょうか?実は,b2u振動の振動数が小さくなくなる(少ないエネルギーで振動する)ことは,当然なのです.例として,原子核間反発のエネルギーで考えてみましょう.b2u振動は一つおきの結合がdだけ長くなるともう一つおきの結合がdだけ短くなる振動です.原子核間反発エネルギーは,炭素原子核の間の距離をRとしますと,36e2/Rで与えられます(eは電子(陽子)の電荷量).b2u振動でRR+dに伸びれば,36e2d/R(R+d)だけエネルギーは低下しますが,隣の結合はR-dとなり,36e2d/R(R-d)だけエネルギーは増加します.dが小さければ,差し引きのエネルギー変化はほとんど0となります.ですから,特にp電子のKekulé構造が安定だからという訳ではないのです.というわけで,HonigBerryの論文は無視することにします.

 

 

 

 


図7.分子のエネルギーは電子の運動エネルギー(<T>),1電子ポテンシャルエネルギー(<VeN>),電子間反発エネルギー(<Vee>),および原子核間反発エネルギー(VN)から成る.


Shaikらの主張に対する疑問

Shaikらの結論に対する根本的疑問はIchikawaらの指摘は次のようなものです.(1)1式で与えられるEpは本当にp電子のエネルギーを表すのかという点と,(2)異なる原子配置でのp電子のエネルギーを比較出来るかという点でした.

                                                             (3)

                                                (4)

分子の全エネルギー(E)は全電子エネルギー(Eel)と原子核間反発エネルギー(VN)に分けることが出来ます.Eelは,電子の運動エネルギー(<T>:古典力学的な描像ですが,運動している電子の運動のエネルギーに相当します),1電子ポテンシャルエネルギー(<VeN>:電子の負の電荷と原子核の正の電荷による静電気的引力に基づくエネルギー),および電子間反発エネルギー(<Vee>:電子と電子の負の電荷間の反発力に基づくエネルギー)に分けられます(図7). なお,‘<’と‘>’でくくった項は量子力学的期待値を表します.量子力学による値には期待値と固有値があり,両者には深遠な意味の違いありますが,ここでは説明を割愛します.

ベンゼンのような平面構造を持つ不飽和炭化水素では,はさらに細かく,p電子に関するエネルギー(Ep)とs電子に関する部分(Es)とにわけ,

                                           (5)


の形に表すことができます.ここで,<T>p<VeN>p 等ははp電子の運動エネルギー,p電子の1電子ポテンシャルエネルギー等の意味です.また,<Vee>ps p電子がs電子より受ける電子間反発エネルギー,<Vee>sp s電子がp電子より受ける電子間反発エネルギーを表します.ただし,作用・反作用の法則により<Vee>ps = <Vee>spです.全エネルギーの分割に関しては,文献[28]を参照してください.

ところで,Shaikらはp電子のエネルギーおよびs骨格のエネルギーとして,6および7式で定義しました.これは,“ヒュッケル分子軌道(後述)で得られるエネルギーは,原子核,(固定した)s電子および他のp電子が作るポテンシャルの中で運動するp電子のエネルギ

                                    (6)

                                         (7)


ー”という解釈に基づいたものと思われます.しかし,s電子も運動しますので,

                                          (8)

                              (9)


のように定義するのがより合理的と思われます.いずれの方法でも,本当にp電子のエネルギーを表すかは吟味する必要があります.

p電子のエネルギーとは?

共役した2重結合のp電子のエネルギーを計算するヒュッケル分子軌道法は,たぶんほとんどの有機化学者はこの方法を知っていると思いますので,計算方法の具体的説明は省略します.この分子軌道法は,Woodward-Hoffmann則の基にもなっています.昔から,ヒュッケル分子軌道法で得られたエネルギーをp電子のエネルギーとよび,すでに述べたように,原子核,(固定した)s電子,および他のp電子が作るポテンシャルの中で運動するp電子のエネルギーであると理解されています.

 ところで,CH2=CH-(CH=CH)n-CH=CH2という系について調べるとp電子のエネルギーには,nが1つ増えるごとに決まった量のエネルギーが増加するという不思議な性質があります.これをエネルギー加成性といいそれを基に芳香族性を定量的に定めています.なぜ不思議かというと,p電子のエネルギーであるにもかかわらず,原子核間の反発エネルギーも含んでいるからです.つまり,nが一つ増えることはCH=CHが加わることですが,これには2つの炭素原子核,2つの水素原子核も加わっています.

Ichikawaらは,この問題を調べるため全エネルギー(E)を5式とVNの和の形に分割し,ヒュッケル分子軌道によるp電子のエネルギーと比例関係にある項を探しました.その結果,全エネルギー(E),電子の運動エネルギー(<T>)およびpまたはs電子の運動エネルギー(<T>pおよび <T>s)であることをみつけました.それらのうちp電子に関係あるものは<T>pですので,この項が,p電子の運動エネルギーに相当するものであると主張しました[2930]

全エネルギー(E)と<T>pとの関係は次のように説明しています.“<T>p<T>の比をとると,鎖状の不飽和炭化水素ではその値は0.0021,鎖の長さに関わらす一定である.ビリアル定理[31]から,E=-<T>であるので,E<T>pとの間には比例関係が成り立つ”というものです.その後,彼らはp電子のエネルギーの加成性に関するさらに詳しい研究を行っていますが割愛します.

結論:p電子のエネルギーとはp電子の運動エネルギー(<T>p)であり, EpShaikp電子のエネルギーには対応しない.

 

ベンゼンで原子配置が変化したとき,p電子のエネルギーは比較出来るか

図5で,D6hベンゼン(B)をb2u座標上で結合距離をdだけ変化させたとします.(この意味は一つおきの結合をd伸ばしもう一つおきの結合をd縮めC構造のベンゼンにすることです.)この構造変化が,p電子のエネルギーに影響を与えなければ,構造BC間のp電子エネルギー変化はそのまま,p電子構造の変化に基づくことに起因するといえます.

 Ichikawaらは,幾何構造の微小変化によるエネルギー変化は,エネルギー期待値(全エネルギーを分割したEp等は期待値に相当する)の場合は全エネルギーよりは大きくなることを理論的に示し,実際にベンゼンの最適構造をb2u座標上で微小変化させたときの全および分割エネルギーの変化を計算しました.結果を表1に引用します[32]

表1. b2u 座標上でベンゼンを変形させたときのエネルギー変化a

term

benzeneb

distortedc

dif.d

E

-230.131181

-230.130948

0.6

Eel

-434.895341

-434.899241

-10.2

VN

204.764160

204.768293

10.9

<T>

229.990483

229.992533

5.4

<VeN>

-946.860745

-946.869539

-23.1

<Vee>

281.974922

281.977766

7.5

Epel e

-40.067251

-40.068398

-3.0

EpShaik f

-6.405036

-6.405731

-1.8

<T>p

7.471762

7.471929

0.4

<VeN>p

-85.535949

-85.537529

-4.1

<Vee>p

4.334722

4.334535

-0.5

Eselg

-394.828090

-394.830843

-7.2

<T>s

222.518721

222.520603

4.9

<VeN>s

-861.324796

-861.332010

-18.9

<Vee>s

210.315770

210.317897

5.6

2X<Vee>ps

67.324430

67.325334

2.4

E'sh

-190.063930

-190.062550

3.6

E'sShaik i)

-223.726145

-223.725217

2.4

aSTO-6G. bAu. Geometry-optimized benzene (D6h). The bond lengths of C-C and C-H are 1.38585 and 1.07867 Å. cAu. Displacement by 0.01Å along the b2u coordinate (D3h). dDifference in kJ/mol. ep Electronic energy. fp Energy’ defined by Shaik. gs Electronic energy. hSkeletal energy (E - Epel). iSkeletal energy by Shaik.

 

d=0.01Åの場合,全エネルギーの変化はわずか0.6kJ/molです.一般にb2u座標上でのエネルギー変化は前に述べた理由により“わずか”になりますが,それでも分割したエネルギーの変化は大きくなり,最大で全エネルギー変化の39倍になっています.p電子のエネルギーに対する原子核配置の影響は<VeN>pに表れます.その値の変化(絶対値)をみると4.1kJ/molです.p電子のエネルギーの変化は,Shaikの定義では1.8kJ/molですので,Shaikらの議論でのエネルギー変化の主体は,p電子構造の変化に基づくのもではなく幾何構造変化によるということになります p電子構造とp電子エネルギーの関係を求めようとしたはずなのに,実際はベンゼンの幾何構造とp電子のエネルギーとの関係を調べたのです.

結論:幾何構造を変化させたとき起こるp電子のエネルギー変化の大部分は原子核配置の変化によるものでp電子構造の変化によるものではない.


それなら,ベンゼンの問題はどのようにして解決するか

p電子のエネルギーはp電子の運動エネルギー(<T>p)あることがわかりましたので,<T>pに注目すればよいことになります.幾何構造を変化させてp電子のエネルギーを比較することはできないという問題に対して,Ichikawaらは2つの方法を用いて解決しています.一つは,幾何構造を変化させず,電子構造を変化させて全および分割エネルギーを電子構造の関数として得る方法です.それは,束縛条件付きHartree-Fockとよばれます[33].もう一つは,エネルギーを核の配置あるいは結合次数で偏微分する方法(偏微分法)です[23]

束縛条件付きHartree-Fock法

電子構造を決めているのは波動関数です.波動関数は任意のものではなく,原子核や電子の電荷がつくる静電場[34]の中で定常波(定在波)である必要があります.定常波とは時間が経過しても存在する波でこれが重要なのです.原子軌道には主量子数,方位量子数,磁気量子数が現れますが,たとえば,主量子数が1.5などという原子軌道(波動関数)は,そのような波は存在出来ないから考えません.任意の電子構造に対応する定常波波動関数をどのようにして求めるかが問題となります.

定常波波動関数は,電子のエネルギーに対応する演算子(ハミルトニアン)の固有関数として得られます.従って,ハミルトニアンを操作して特定の電子構造となるように変化させ,その固有関数を求める方法でその電子構造に対応する定常波の波動関数が得られます[35].波動関数が得られれば,全エネルギーあるいはその成分の値も求めることができます.通常用いられている分子軌道法の場合は,ハミルトニアンは Fock演算子です.Fock演算子を操作して特定の電子構造の波動関数を得ることは,束縛条件付きHartree-Fock方程式を解くことに相当します.どのような方程式かというと,

                                                                                                                    (10)

の形で,lがないものが通常のHartree-Fock方程式です.ここで,FCS,およびeはそれぞれFock演算子,分子軌道への基底関数の寄与を表す係数,重なり積分および分子軌道のエネルギーです.l は系(分子)の電子構造を規定する演算子で,たとえば共役のないbenzeneの電子構造の波動関数を求めるなら,一つおきのC-C結合上のp電子を掃き出す演算子と考えます.この方法の詳細は文献[33]に譲るとして,結果を紹介します.

図8.一つおきのp結合次数(Prs)の関数として各種のエネルギーを表す


 束縛条件付きHartree-Fock法を用いると,ベンゼンの幾何構造を変化させずに結合次数の関数として,全エネルギーおよびその成分の値を求めることができます.ベンゼンの一つおきのp結合次数(Prs)の関数としてのエネルギー変化を図8に示します.基底関数系はSTO-6Gです.Prs =0のとき,benzeneの2重結合が完全に孤立している状態であり,Prs = 0.49166がエネルギー最小値で,通常のHartree-Fock法で与えられる値に一致します.特筆すべきことは,全エネルギー(E)も分割項も(Shaikの定義したp電子のエネルギーも含めて)すべてPrs = 0.49166のとき最小となることです.ことことは,p電子のエネルギーもそのとき,つまり均等分布のとき最低となります.適切ないいかたではありませんがShaik流の表現を用いれば,benzenep電子は均等分布を好むということになります.


偏微分法による結果

エネルギー(E)を規定する変数をq(複数)として,それらのうち一つの変数qのみがDq変化したとき,エネルギー(E)の変化(DE)の比を考えましょう.Dqを無限小のときの比をEqに関する偏微分係数といいます.

                                                               (11)


q
が方向を有しますので,も方向を持ちます.したがって,偏微分係数(値)は方向と大きさを持つ,ベクトル量となります.(なお,エネルギーは方向の情報を持たないスカラー量です.)

原子の核座標をqとすると,その位置での原子核に働く力となります.幾何構造が最適化されている場合は,すべての原子核座標の全エネルギーに関する偏微分係数が0となっています.また,分子の全エネルギーは原子核の座標の関数となっていますので,分子の(幾何)構造は,その近辺で小さな値となるようなエネルギーの「窪み」に入るような形で,原子核の位置がおさまります.このようなエネルギーの「窪み」は一般に複数あり,同じ分子式でいろいろな化合物が存在することに対応します.そのような点を,エネルギーの観点からは,エネルギーの極小値(local minimum)といいます.なお,エネルギーの最小値(global minimum)という言葉がありますが,これは複数ある極小値のうち最小のものをいいます.

 さて,偏微分法を用いると,化学現象の原因を解明することができます.E5式とVNの和の形に分割できますので,6式は,

             (12)


となり,として原子核座標をとれば,12式の右辺は原子核に働く力の成分となります.化学反応は原子核の位置の変化を伴いますので,12式の右辺を解析すればどのような種類の力がその反応を誘導しているかがわかります.12式のようなエネルギー分割成分の変数qに関する解析的微分法はTokiwaらにより与えられています[35]が,数値微分法でも容易に求めることができます.

 ベンゼンはD6h構造のときEは最小値をとりますので,b2u座標上でbenzeneを変形させD3hとしそのときD6hに戻ろうとする力を解析すればbenzeneD6h構造の原因が明らかになるはずです.b2u上で0.06A変形させた場合の値を表3に示します.

 

3benzeneb2u座標上で,0.06A変形させたとき,元に戻ろうとする力(kJ·mol-1·Å-1)(分子軌道法はSTO-6G

E

<T>p

Epel

EpShaik

Esel

Es

Es’ Shaik

0.33

0.10

-1.29

-0.80

-3.36

1.62

2.12

 

正の値は,元に戻ろうとする力,負の値はKekulé構造形へ導く力に相当します.もし,p電子のエネルギーをShaikらの定義で正しいとすると,p電子はKekulé構造を好み,s電子のエネルギーがそれに逆らうとう結論がえられます.しかし,p電子のエネルギーは<T>pですので,結論は逆で,p電子は系をD6hに戻す力を有していることになります.

 同じ変形した構造で,座標qPrsとした結果を表4に示します.この幾何構造では一つおきの結合の1重結合の部分のp電子分布は少なくなり,最適化値はPrs = 0.35450D6hのとき0.49166です.だいぶp電子は局在化しています.

 

4.変形したbenzeneにおけるエネルギー成分の偏微分値(X/Prs)

E

<T>p

Epel

EpShaik

Esel

Es

Es’ Shaik

0.0

-500.7

198.4

6.95

-198.4

-198.4

-389.9

 

             

 

単位:kJ·mol-1·e-1

 

 表4で正の値は,Prsが大きくなることによるEの増加で,負の値は低下をあらわします.均等分布の方向へは<T>pがエネルギーが大きく低下することがわかります.つまり,p電子は均等分布をなうとしているが,幾何構造が変形しているため0.35450の値となると理解することができます.

結論:正6角形ベンゼンでは,p電子は均等分布を好む.Kekulé形に幾何構造が変形したベンゼンでは,p電子はその幾何構造を正6角形へ戻す力をもち,p電子の分布も均等になろうとする

 

なにが問題だったのか

研究には間違いが付きものですが,間違った研究は必ずしも無意味であったということではありません.失敗の原因を分析することで自分のまたは他人の新たな研究で“誤りを繰り返さない”という貢献をすることができます.そういう意味で今回の騒動の原因を考えてみましょう.次の3点をあげることができます.

1.p電子のエネルギーの定義が芳香族性の“物差し”となるものでなかった.芳香族性の基準となるエネルギーの物差しは,加成性が成り立たなくてはならないというは,1960年代にわかったことです[37,38].この加成性は1971年にHessSchaadによって詳しく研究されました[39].これらの文献は有名であるにも関わらず,Shaikらは見落とした.さらに,彼らより40年以上も前に同じようなことを指摘したHonigの論文をも引用していないので,tanukiとしては“何をか言わんや”という思いです.研究は文献を調べることが基本ですよね.

2.化学構造式がもつ曖昧性が系の定義に曖昧性をもたらした.化学構造式は分子情報を簡潔に表現しているので便利ですが,構造が元の構造より変化しても同じ表現であるため,分子を構成しているエネルギー関係にも大きな変化がないと思われがちです.しかし,少しの幾何構造変化によって,分子内のエネルギー関係は大きく変化するのです.これは,次の3に関連します.

3.Born-Oppenheimer近似が正しく認識されていなかった.分子軌道法はBorn-OppenheimerBO)近似の上に成り立っています.これは,電子の運動は原子核の運動に比べて無限に速いという近似です.原子核の質量は電子の1,840倍から数万倍にもなるので自然な近似であり,実際ほとんどの化学現象はBO近似を適用して不都合はありません.BO近似は“原子核が移動するとき,移動と同時に電子分布は最適化(電子の分布を決める波動は定常波となる)の状態となる”と同等です.したがって,少しでも原子核の位置が変化すれば,元の系とは異なる系となってしまうのです.何が違うかというと,電子に対するポテンシャルが異なるのです.同じような電子構造でもポテンシャルが違えば異なるエネルギーとなります.だから,異なる系間のエネルギー比較は,分子の幾何構造とエネルギーとの関係を与えますが,その方法で電子構造とエネルギーの関係を調べることは,無意味となるのです.

 

 

参照・文献

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3.       Shaik, S. S.; Hiberty, P. C.; J.-M. Lefour, Ohanessian, G. J. Am. Chem. Soc. 1987, 109, 363.

4.       Shaik, S. S.; Hiberty, P. C.; J.-M. Lefour, Ohanessian, G. Nouv. J. Chim. 1985, 9, 385.

5.       Hiberty, P. C. Topics Curr. Chem. 1990, 153, 28.

6.       Hiberty, P. C.; Shaik, S. D.; Ohanessian, G.; Lefour, J.-M. J. Org. Chem. 1986, 51, 3909.

7.       Hiberty, P. C.; Danovich, D.; Shurki, A.; Shaik, S. J. Am. Chem. Soc. 1995, 117, 7760.

8.       芳香族性は有機化学の基本的概念ですので,どの有機化学の本にも載っています.ここでは,専門書いくつか挙げましょう.a:“新しい芳香族系の化学”化学総説 15 日本化学会 編 (http://www.jssp.co.jp/f_chem_rev/sosetu15.html) b: Badger, “Aromatic Character and Aromaticity,” Cambridge University Press, London, 1969; Bergmann and Pullman, “Aromaticity, Pseudo-Aromaticity, and Anti-Aromaticity, “Israel Academy of Sciences and Humanities, Jerusalem, 1971. c: Minkin, Glukhovtsev, and Simkin, “Aromaticity and Antiaromaticity,” A Wiley-Interscience, New York, 1994
(http://www.opengroup.com/sabooks/047/0471593826.shtml)

9.       Hückel, E. Z. Phys. 1931, 70, 204.  廣田 穰 ”分子軌道法”化学新シリーズ 裳華房 ISBN4-7853-3207-7
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4785332077/249-4100615-9836311

10.   Kataoka, M.; Nakajima, T. J. Org. Chem. 1987, 52, 2323.

11.   Nakajima, T.; Kataoka, M.; Theoret. Chim. Acta 1992, 84, 27.

12.   Epiotis, N. D. Nouv. J. Chim. 1984, 8, 11.

13.   Cooper, D. L.; Gerratt, J.; Raimondi, M. Nature 1986, 323, 699.

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25.   Ichikawa, H.; Yoshida, A.; Kagawa, H.; Aihara, J.; Bull. Chem.Soc. Jpn. 1999, 72, 1737.

26.   Hornig, D. F. J. Am. Chem. Soc. 1950, 72, 5772.

27.   Berry, R. S. J. Chem. Phys. 1961, 35, 2253.

28.   全エネルギーをその成分の和の形に表す方法をエネルギー分割法とよばれ,比較的昔から用いられている手法です.詳しくは,下記の文献およびそこに引用されている文献を参照してください.Ichikawa, H.; Yoshida, A.; Int. J. Quantum Chem., 1999, 71, 35.

29.   Ichikawa, H.; Ebisawa, Y. J. Am. Chem. Soc. 1985, 107, 1161.

30.   Ichikawa, H.; Sameshima, K., Bull. Chem. Soc. Jpn., 1990, 63, 3248.

31.   ビリアル定理:系のエネルギー(E)は運動エネルギー(T)とポテンシャルエネルギー(V)との和(E=T+V)で表されます.定常状態(時間的にEが変化しない状態)では,V=-2Tが成り立ち,したがってE=-Tです.これを,ビリアル定理といい,古典力学でも量子力学でも成り立ちます.分子の状態を議論するうえで重要な定理です.-V/Tをビリアル比といい,定常状態(分子の場合は,幾何構造が最適化されている場合)は正確に2です.反応の途中では,この比は2にはなりません.分子軌道法で計算する場合は,基底関数系が完全系(分子の電子構造を記述するのに十分な数と性質の基底関数が備わっていること)のときのみ2となります.しかし,スケーリングという手法があるので,基底関数系は完全系である必要はありません.

32.   Ichikawa, H. Recent Res. Devel. Mol. Structure, 2002, 1,93.

33.   Ichikawa, H.; Kagawa, H. Int. J. Quantum Chem. 1994, 52, 575.

34.   静電場:たとえば,陽子がありそこからrだけ離れた場所に電子がある場合,両者には,
 の力(f)が働きます.(-eは電子の電荷,eは陽子の電荷,e0は真空誘電率とよばれる定数で,単位の取り方(たとえばcgs単位)によって最初の括弧は1となります.電子の電荷を除いた,を,位置rにおける陽子がつくる電場Eといいます.rの位置に電子を置くと,f=eEの力(ベクトル)が働くことになります.力の方向はrの方向に一致させます.

35.   この方法で,測定される物理量(たとえば双極子能率)を再現する波動関数を求めました.(a) Mukherji, A.; Karplus, M. J. Chem. Phys. 1963, 38, 44. (b) Rasiel, Y.; Whiteman, D. R. J. Chem. Phys. 1965, 42, 2125. (c) Brown, W. B. J. Chem. Phys. 1966, 44, 567. (d) Chong, D. P.; Rasiel, Y. J. Chem. Phys. 1966, 44, 1819. (e) Chong, D. P.; Brown, W. B. J. Chem. Phys. 1966, 45, 392. (f) Fraga, S.; Birss, F. W. Theor. Chim. Acta 1966, 5, 398. Fock方程式への適用は,
(a) Björnå, N. J. Phys, B, 1971, 4, 424; ibid 1972, 5, 721; ibid 1972, 5, 732. (b) Björnå, Mol. Phys. 1972, 24, 1.

36.   Tokiwa, H.; Ichikawa, H.; Osamura, Y. J. Chem. Phys. 1992, 96, 6018.

37.   Breslow, R. Chem. Eng. News 1965, 43, 90; Chem. Brit. 1968, 4, 100; Angew. Chem. Int. Ed. Eng. 1968, 7, 565.

38.   Dewar, M. J. S. “Molecular Orbital Theory of Organic Chemistry,” McGraw-Hill, New York, 1969, Chap. 5; Dewar, M. J. S.; de Llano, C. J. Am. Chem. Soc. 1969, 91, 789.

39.   Hess, Jr., B. A.; Schaad, L. J. J. Am. Chem. Soc. 1971, 93, 305.